Out of Tokyo

日本磁器誕生の地、佐賀県有田町へ。

初めての佐賀・有田へ。
実は、有田と伊万里の違いが分からなかった。古伊万里と呼んだ方が骨董っぽくて価値も高そうだ。ヨーロッパに輸出されていたのは古伊万里だし、有田は日常器で伊万里は輸出用高級品、なんとなくそんなイメージを持っていたが、長年の夢が叶って有田の町を訪ねることができた。窯元で地元食材を使ったフレンチを楽しむ大人の一夜「DINING HACK」へご招待いただき、右足肉離れも回復が進み、ようやく歩けるようになった10月下旬、週末を利用して出かけてきた。

佐賀空港から有田へ向かう風景は、空が広く広い平野が広がる。

有田とは。
佐賀県西松浦郡有田町。佐賀県の西端にある人口わずか2万人ほどの小さな町。
江戸時代の幕藩体制家では、現在の佐賀県、長崎県あたりは「肥前」と呼ばれていた。肥前を統治していたのが外様大名「鍋島」。当時から有田という地名はあったようだ。
その有田で焼きもの(磁器)が作られるようになったのは1616年、江戸時代初期が始まり。朝鮮から陶工として日本へ渡ってきた李参平が現在の有田町泉山に磁器石の山を見つけ、これがきっかけとなって磁器を作るようになったと言われている。

江戸時代初期に始まった磁器作り。
江戸以前、室町時代の頃は、中国から渡ってきた「唐物」や朝鮮からきた「高麗物」などの茶道具がもてはやされ、秀吉の時代(千利休などの時代)にはこれらが貴重なものとして人気だったようだ。あの国宝、曜変天目などは中国からの渡り物だった。秀吉の朝鮮出兵の時に、多くの陶工たちを朝鮮から連れて帰国し、鍋島藩や島津藩は特に多くの陶工を連れ来たとされる。おそらくその中に李参平もいたのだろう。
江戸時代に入った頃、中国では明の時代に大きな内乱があり、景徳鎮などで盛んに焼かれていた焼きものの輸出ができなくなった。当時からオランダの東インド会社などが中国の景徳鎮などから南方のアジアやヨーロッパへ盛んに輸出していたのがストップし、その代わりにと求められたのが、有田の焼きものだった。しかし、時は江戸時代。鎖国の中で貿易ができたのは長崎の出島だけ。そこで、有田の町から近くの港である伊万里港から出島へと運び、そこからヨーロッパやアジアへと海を渡って行った。伊万里港から輸出された焼きものが「伊万里」と呼ばれるようになった所以だという。

つまり、伊万里焼というのは、肥前あたりの窯元で焼かれた焼きもので、その多くは原材料となる磁器石が出土した泉山のある有田の窯元で焼かれたものだったということ。最初は景徳鎮の模倣で始めた染付を中心に作り始め、徐々に独自の技法や東インド会社の指導によってヨーロッパ市場にも認められるような工芸品に近い器ができるようになってきた、と推測できる。

そんな400年の歴史のある、日本磁器誕生の地、有田を訪ね、しかも、窯元で開かれる一夜限りのダイニングパーティで地元食材だけのフレンチをいただく、そんな素敵なお招きをいただいた。
この企画を仕掛たのは、東京から福岡へ移住したクリエイターの伊藤レイさん。歴史ある窯元そしてフレンチシェフとの出会いから、そこにフラワー、音楽などのミックスしたインスタレーションを演出することで、新しい有田の可能性を発信してみたい、そんなプロジェクトだ。

続く「一夜限りのダイニング・ハック」

レポート:TokyoDays宮崎秀雄

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