私がワイナリーへ行く理由。
◎長野県東御市のワイナリー、リュー・ド・ヴァン。
小山英明。長野県東御市のワイナリー「リュー・ド・ヴァン」の醸造家である。
11年目となるリュー・ド・ヴァンの小山氏と出会ったのは今から8年ほど前になるだろうか。軽井沢のホテルで試飲会と株主募集の会を開くというので、軽井沢の農家に案内してもらった時が最初の出会いだった。小山氏の語る言葉にはひとつひとつ夢があると同時に、それまでの彼の人生から学んだことや経験から紡ぎ出される言葉には、挑戦することは大きなことだが、とても説得力のあったことを覚えている。当時はまだ苗木を植えて3年くらいで、ようやく初めてのシャルドネをリリースしたばかりだった。
◎湯の丸スキー場へよく通っていた。
東御市というのは市町村合併でできた新しい市で、その前は小県郡東部町という町だった。この町を代表する観光資源となっている「海野宿」という宿場町に親戚が住んでいることもあり、昔からよく訪れていた町だった。冬になると、親戚の家から湯の丸のスキー場へ子どもを連れて出かけていた。ローカルで穴場的なスキー場の割には意外と雪質がよく、子どもを滑らせるには適度なゲレンデなので、よく通った。当時は、まだ関越自動車道が藤岡までしかなく、藤岡ICで降りて碓氷峠を超えて行くしか方法はなかったが、国道18号は混むのでいつも富岡の田畑の中のスーパー裏道を松井田まで抜けて碓氷峠を登っていた。そんな町で突然小山氏がワインを作るというので、驚くだけではなく、いったいどんな人がどんなことをしようとしているのか、もちろん知りたかった。
◎かつての養蚕地帯。
もともとこの地帯は、私の田舎の群馬県北西部と真田一族が行き来していたように地理的にも歴史的にも繋がっていて、かつては養蚕地帯だった。農家は蚕を飼うための桑の木を植え、桑の葉を収穫して蚕の餌としていた。私の実家も長年養蚕を営み、年に3回くらいは蚕の繭を出荷していた。富岡製糸工場は農家の出荷した繭から生糸を紡ぎ、八高線〜横浜線で横浜へと運んでヨーロッパへと輸出していた。明治時代から続く、殖産興業の歴史の1ページである。昭和40年台になり生糸の価格が暴落し始め、養蚕業の農家は一気に事業転換を迫られた。今、TPPのことがどうなるか分からないが、古くから歴史は繰り返しているわけだ。群馬の農家さんたちは養蚕からこんにゃくやきのこの生産へと転換したが、ここ信州の農家さんたちは桑の木を抜き、りんごの木を植えた。信州のりんごも売れたが、りんごの栽培はとても大変な仕事で、後継者不足となった。同時期にぶどうを植えた農家も多く、東部の巨峰は全国的に知られる一大ブランドとして人気となった。しかし、ぶどうの栽培もりんごと同じように大変な作業で後継者がいない。その結果、多くの畑は耕作放棄地としてその風景は見るに耐えない道を辿るしかなかった。
◎50年後の風景を作る仕事。
地理的にこの地は浅間山、湯の丸の南面傾斜斜面で、空は広く昔から降雨量の少ない土地柄だった。それはまさにワイン用ぶどうの栽培に適した土地だった。傾斜した斜面の底には千曲川が流れ、夏になると川で冷やされた空気が上昇気流を生み出し、下から吹き上げる風が心地よいという恵まれた環境であることを小山氏は見抜き、この地であれば理想的なワインを作ることができるかもしれないと、何の地縁もないこの町に住み着いてしまった。
小山氏の言葉の中で忘れることのできないのが「ワイン作りというのは、50年後の風景を作っていくようなものなんです」と言う言葉だ。50年後の風景。逆に言うと、50年前の農家さんたちは今の風景を想像していただろうか。50年前はまだ養蚕業も盛んだった頃だ。それからりんご畑、ぶどう畑と景観を変えて、誰がワイナリーがここに誕生する風景をイメージしただろうか。しかし、小山氏はすでに50年後の風景をしっかりと見据えている。リュー・ド・ヴァンという名前がそれを物語っている。リューは通り。ドは英語のof。ヴァンはワイン。つまり「ワイン通り」という意味だ。ワイナリーを中心にここに一本の道ができるだろう。レストランやオーベルジュなど、食、宿泊をともなった町がここに誕生することを夢見ている。しかし、夢見るだけではその風景はいつになっても叶うことはない。言葉に出して言うことから始まり、実際に自らの力でワイナリーの風景を作り出す。その過程を8年近く見てきた結果、彼の言葉にブレのないことが身にしみて分かる。当時はセラーはもちろんカフェもなく、いったいどうやって最初のヴィンテージをリリースしていたのか、今となっては思い出すことすらできない。
◎収穫のボランティア。
毎年、秋に行われる収穫作業のお手伝いに行く。必ず友達を連れて行く。それはひとりでも多くの人にこの風景を見てもらい、自身の言葉でまた友達に話して欲しいからだ。それは、美味しいワインのことはもちろん、小山英明という挑戦者の生き方そのものを知って欲しいという思いもある。風景を作り出そうとしているオトコの生き方を。だって、そんなダイナミックな仕事も生き方もなかなかできないから。先行き不透明な時代と言われる今、50年先のことをイメージしながら、ブレずに生きて行く。そんなこともなかなかできやしない。でも、彼はブレずにそれを日々実践している。それがワイナリスト、小山英明の生き方だ。そんな人に会うと、必ず新しい発見があり、少しだけ自分がこれからも生きることに勇気をもらえる。東京で些細なことにストレスを溜めながら生きる毎日のなんと他愛のないことよ感じてしまうことで、自分のバランスを保つことができる。だから、ワイナリーに行く。
去年に続き今年も収穫ボランティアに参加いただいた元木さん(左)と小山氏(中)、そして宮崎(右)。