富岡製糸場、世界文化遺産に。
幼い頃の記憶を辿る。
子供の頃、実家の主な収入源は「お蚕さん」だった。春、夏、秋と年に3回養蚕を行い、繭を出荷して大きな収入源となっていた。そのためか、蚕には「お」と「さん」を付けてみんな「お蚕さん」と最大限の敬意を持って呼んでいた。当然、家の廻りには桑畑がたくさんあり、お蚕さんの餌となる桑の葉を育てていた。
私の生まれ育った実家は大きな3階建の家だった。1階は私達が暮らし、2階と3階はお蚕さんが飼育されていた。夜中、一人で勉強をしていると、2階で「ざわざわ」と雨の降るような音が響き、時々「ザザー」と水の流れるような音がする。それはお蚕さん達が一斉に桑の葉を食べる音であり、オシッコをする音だった。特に繭を作る前には、オシッコをしっかりしてから繭を作らないと、オシッコで黄色い繭になってしまうので、お蚕さん自らしっかりとオシッコをしてから糸を吐き出していた。そんな彼らの習性も不思議だった。
もともと養蚕業は江戸時代に発展し、京都の西陣織りや群馬の桐生の織物などはこの時代に始まっている。明治維新後、明治政府は日本を諸外国並みの国家へと近代化を推進するため生糸の輸出を重点施策とした。富国強兵・殖産興業の掛け声のもと、群馬県や長野県を養蚕業の中心地とし、明治5年に富岡に製糸工場を建設した。海外の先端技術を導入し、海外から指導者を招聘し、品質の高い生糸の生産を進めたとされる。当時、鎖国を解き諸外国と貿易を始めたばかりの日本の主力輸出商品が生糸で、横浜からヨーロッパを中心に輸出されてきた。昭和初期まで輸出量も増え続け、日本にとって外貨獲得の主要産品であり、その後の日本の近代化の礎となったことは間違いない。もちろん国内需要も豊富で、戦後、昭和40年代まで和服の需要が伸び、生糸の需要も増えていった。
私が小学生だった頃までは、このように毎年年に3回の養蚕を行っていたが、今でもその工程を記憶している。卵から孵化したばかりの幼虫(「けご」あるいは「きご」と呼ばれる)を買って来て、そこから飼育が始まる。何度かの脱皮を経て、およそ1ヶ月くらいで身体が半透明になってうっすらと赤色に染まると桑の葉を食べるのをやめ、回転蔟(まぶし)と呼ばれる巣に上り、生糸を吐き出し2~3日で繭を作ってしまう。面白いもので、繭を作り始める前に、蚕は高いところに登ろうとする。中には蔟に入らずに天井や3階まで上り、そこに繭を作るのもいた。でき上がった繭を蔟からとって集め(繭かきと呼ぶ)外側の真綿をとってから麻の袋に詰めて出荷する。この1ヶ月くらいの期間、農家の人はお蚕さんにかかりっきりになる。病気にならないように気を使い、少しでも元気な蚕がきれいな繭を作るように気を配る。きれいな桑の葉を与え、温度管理をして、快適な環境を維持してあげることに腐心していた。特に雨が続くと、桑の葉も濡れ、気温も下がり、病気の原因になっていたようだ。桑の葉のやり過ぎや少なさ過ぎもよくないのは当然で、母親は夜中にも起きだして様子を見に行ったりしていた。それはまるで子供の様子を見に行くのと同じような気持ちだったのかもしれない。それでもおしっこの付いた黄色い染みのある繭や2匹で作ってしまった繭(タマと呼ぶ)など、ハブキの繭がどうしてもできる。そんな変形の繭はおばあちゃんが土間で大きな鍋で煮て生糸を紡ぎ、その生糸で反物を作り、着物まで作っていた。おばあちゃんが元気だった頃、私に生糸で作ってくれた大きな褞袍(どてら)がある。東京に出て来る時に、寒くないようにと作ってくれたものだ。もう40年近く前に作ったものだが、とても丈夫で、キラキラと輝き、さすが国産生糸だと感心させられる。もちろん今でも冬の寒い日には活躍している。
1匹の蚕が作る繭は約1,500mくらいの1本の生糸でできており、あんな小さな身体からどうやってこんなにきれいな生糸が吐出されるのか、しかも桑の葉しか食べていないのに、不意義な生き物のだった。お金を吐き出す小さな幼虫は、まさにさん付けで呼ぶのも理解できる。
1960~70年代(昭和40年代)当時、まだ日本の国産生糸は高値で取引されていた。国内需要も豊富でもちろん輸出もされていた。それが昭和50年代に入ると日本人のライフスタイルが一気に洋服へと様変わりし、同時に中国からの安い輸入生糸が市場に溢れるようになり、あっと言う間に国内の養蚕農家は激減していった。私の実家でも兄が家業を継いだ時には養蚕はしなかった。
横浜へとつながるシルクロード。
幼い頃そんな両親の苦悩も知らずに育った私は、ようやく当時の面影を巡る旅に出ることができた。昨年の夏、仕事で横浜の東神奈川駅を訪れた時、横浜線の歴史を書いたプレートを見た。1858年(安政5年)に開港した横浜の主力輸出産品が生糸だったことが書かれ、横浜には生糸を商う大商人が表れ、上州や信州から生糸を仕入れるために横浜線を開業するきっかけになったとある。同様に、中継地点である八王子にも生糸を商う豪商が表れ、鑓水(やりみず)商人として大きな商いをし、一夜にして巨万の富を築いたとされる。八王子から横浜まで絹を運ぶための道が「絹の道・シルクロード」として存在し、それが後の横浜線開業のきっかけとなった。横浜の生糸豪商の中に、原善三郎・原富太郎親子がいて、後々富岡製糸工場を保有することにもなり、また今でも人気の高い横浜三渓園を作った人だった。1908年(明治41年)横浜線が開業したが、すでに中央線~新橋駅経由で運ばれるようになっていて、残念ながら生糸の輸送にはそれほど間に合わなかったようだ。群馬県の高崎から八王子までの八高線や群馬県内の上信電鉄(下仁田~高崎間)も同様で、生糸輸出輸出のために使われたローカル線の鉄道だった。
私の実家は群馬県内の北西部、吾妻という町だが、群馬県内で生産された生糸は富岡製糸場に集められ、ここで生糸になり、八王子、横浜を経て、海外に輸出され、国内需要に供給されていた。群馬の田舎と横浜が自分の中で繋がった。
明治5年、富岡製糸場の建設。
明治5年、日本を代表する製糸工場として富岡製糸工場は建設され、以来長年稼働してきた。そしてその姿は今でも見ることができる。養蚕農家に生まれたにも関わらず、この工場を今まで観たことがなかったので、昨年の5月、初めて訪れてみた。今では世界遺産登録の準備で話題となっているが、実際に見てみるまで、こんな凄いスケールで、こんなに程度のよい状態で保存されていることにも驚いた。世界遺産に登録されるかどうかは別として、明治以降日本の発展の大きな基礎となったその足跡は見るに値すると思う。
繰糸場の中はとても広く、長さが140メートルもあるという。これは世界的にも最大規模の大きさだったらしい。当時、フランス人のポール・ブリュナという人がこの地に決めて、西洋技術を取り入れ、指導者も海外から呼び、女工さんも多く集められた。繰糸器と呼ばれる機会はなんと「PRINCE」とある。ガイドの方によれば、今の自動車メーカー日産と合併したプリンスだったと言う。このラインに300人の女工さんが集められ、良質な生糸を紡いでいた。それでも最初はなかなか女工さんが集まらなかったようだ。赤ワインを飲む習慣のあった外国人指導者の姿を見て、「外国人に生き血を吸われる」そんなエピソードもあったと言う。
もともとは国営として始まり、後に三井家に払い下げ。その後横浜の原家に譲渡され、昭和に入り株式会社富岡製糸所として独立した後、片倉製糸紡績(現片倉工業)に合併され、戦争を経て1987年(昭和62年)まで操業が続いた。
繰糸場、繭倉庫、外国人宿舎、女工館、ブリュナ館、検査人館など、当時のままできれいに保存されている。本格的なレンガ作りの建物は西洋風の建物デザインで、ブリュナ館なども外国人の住居として使用されていたので、西洋式ライフスタイルの様式である。
そして地元の方の努力が実り、世界文化遺産に登録されることになった。明治時代初期にこれだけの一大産業が日本の基礎となったことは、日本の歴史でも、自分の歴史においても忘れることのできない足跡であることが確認できる上、奇跡的と評価された保存状態の良さも貴重な存在だ。お蚕さんのおかげで私も学校に行かせていただき、今でもこうして暮らしていられるのも、本当に感謝である。
現在、世界遺産登録を目指している「富岡製糸場」と日本の養蚕の歴史をとても詳細にまとめた「養蚕技術発達史」をこちらからリンクしているので参考に。
この記事と写真は一昨年(平成24年5月)に行った際のものです。