どうする、自分。
広告の世界だけではなく、モノ作りの世界でも、長い間「差別化」ということを重要な基準として位置づけていた。
他者とは異なるもの、独自の固有技術やアイデアを求めて。
しかし、アイデアはすぐに真似されるし、そう簡単に新しい技術や製品など生まれない上、長い時間リードし続ける技術もそう簡単には見つからない。
差別化が難しいと分かれば、次は「付加価値」という言葉でプラスアルファの提案を盛り込もうと、モノを売るだけではなくライフスタイルの提案を行うようになった。
しかし、情報の伝達速度はもう世界中の誰にも同じ速度で届くし、毎日の生活を楽しむアイデアは消費者のほうが優れている。
となれば、市場競争の波間に揉まれながら、ゼロになることはない市場、レッドオーシャンの中で熾烈な競争を勝ち抜くしかない。オープンプライスや価格競争もその中の重要な戦略だった。
しかし、作れば売れる経済成長の時代を経験則として生きてきた経営者にとっては、そんな荒海を泳ぎきるのはそう簡単ではなかった。
最近の東芝や旭化成建材、シャープにVWやもんじゅのことなど、一連の大きな問題は、そんな時代の結末なのだと思う。
それを今回のパリのテロの発生と時代背景を同じであることを考えてみると、「差別化」の結末が招いた悲劇のような気がする。
企業は差別化で独自の立ち位置(ポジショニング)を獲得しようとしてきた。
(もちろん中には真似を主流にする戦略をとる企業もあるが。)
国や宗教も差別化がアイデンティティの根源だ。
人はなぜ争うのか?戦うのか?それは、経済でもイデオロギーでも同じ理屈なのではないかと思う。
つまり、自他の区別をどうつけるか、ということだ。
我々日本人は幸いな事に島国なので、他国との国境がない。ヨーロッパと比べると決定的に違う。ヨーロッパは一見行き来が自由に見えて、実は自由とは対極の心の中の強いバリアが内在している。だから、我々日本人には理解しにくい、ナショナリズムが存在する。サッカーのEUチャンピオンシップの盛り上がりもそうだ。スポーツでも経済でも戦いが人を熱狂させる。武力は使わないにしても戦いだ。それが人間の本能だとしたら、企業に属さずアスリートでもない一般の人々はどこで戦うという本能を満たすのか?吐くのか?
争いの原点は貧富の差にあると思う。世界の市場を制覇してきたアメリカ型の拡大資本主義経済の裏側に、実は多くの犠牲が生まれつ続けてきていたのではないだろうか。それこそ、差別化の非差別側に。
日本は島国という恵まれた環境であったことと、江戸時代に長い間鎖国を実施してきた経験で、独自の文化や理念を作り上げてきた。大きな戦争で敗戦国となり、国も民衆もこれ以上ない苦しみを経験した。これはある意味、非差別側と同じポジションだと思う。そこから奇跡的に世界第二位の経済大国になったのは、「負けてたまるか」のマインドだったと思う。
しかし、グローバル化がここまで進み、これまでの海外輸出の恩恵を受けた日本としては、今さら後戻りはできない。TPPにしても国際化の大波に呑み込まれることになるし、人間は一度味わった贅沢の基準をそう簡単には引き下げることもできない。となると、この先日本はどうなるのか、それは自分たちの暮らしがどうなるのかということと同じことだ。