Tokyo Nice

シトロエンの思い出。

1989年、自動車メーカーのマツダが突然フランスとイタリアからクルマの輸入を始めた。フランスからはシトロエン、イタリアからはランチャ。なぜマツダがヨーローッパ車を輸入するのか?そんなことも分からず、当時ユーノスを「プレミアムチャンネル」にするために、ユーザーとのコミュニケーションツールとして「クラブ・ド・ユーノス」という会報誌を編集し、年に3回ほど発行していた。

ユーノスがシトロエンの販売代理をすることになり、さっそくロードスターの他に左ハンドルのBX-BREAKに乗るようになった。ハイドロのサスペンションはオイル漏れによるトラブルが多いということは聞いていたので、エンジンスタート後はしっかりと車体が浮き上がるのを待ってからシフトレバーをDに入れるように注意していた。ランチャは窓が開かなくなるけど、シトロエンは開いた窓が閉まらなくなる、それが当時のヨーロッパ車の定評だった。

しかし、私が乗ったBXもBX後に乗ったエグザンティアも奇跡的に大きなトラブルはまったくなかった。安っぽいインテリアの割には乗り心地のいいシートにハイドロの浮遊感で高速は快適だった。怖いのはブレーキの効きの悪さ。なので、車間は空けて走るようにいつも心がけていた。特にBXはディーゼルかと思わせるようなエンジン音はカセットテープの音楽を聴こえなくするのにも充分だった。

当時は西武自動車がシトロエンを販売していただけで、国内でユーザーの取材もできないので、パリへ取材や撮影によく出かけた。パリの町中を小型のAXで走り回り、縦列駐車をして街角のシトロエンを撮影する、そんな気軽なスナップをたくさん撮った。記憶に残っているのは、AXを駆ってドービルの海岸まで日帰りトリップをした時のことだ。途中の村の林檎畑の真ん中に小さな礼拝堂があり、何となく立ち寄ってみると日本人の画家が中を修復しているという。その時彼は日本に出かけていたので会うことができなかったが、後に彼を四国の金毘羅さんに訪ねたことがあった。田窪恭治さんという美術家で、放浪の旅の末この村にたどり着き、村の礼拝堂を修復するために林檎の絵を描いていた。

私がシトロエンに乗っていた頃は、ちょうど二人の子どもたちが幼稚園から小学校の頃。なので、小さな子ども二人を載せお弁当を持って海へ行ったり、山へ行ったり、毎週末どこかへ出かけていた。冬はミシュランにイエティスノーネットを巻いて雪山をガンガン登った。FFだからというだけでなく、シトロエンは雪道に強かった。上越の峠道でBXをくるりと1回転させてしまったこともあったり、丸沼からの帰り、沼田市内でドカ雪に降られて高速に乗れず、急遽隣町の実家へ避難したこともあった。子どもたちの思い出は2台のシトロエンがいつも一緒だった。

そんな思い出のあるシトロエンが100周年を記念してこんな展示をしていた。今はシトロエンジャポンが正規輸入代理店で、昔のような悪判もなくDSの名前を冠した車種やスポーツタイプもある。ワイナリーで働く友人もDS3がお気に入りで乗っている。でも、この日見て回ったのはやっぱり古いシトロエンばかりだった。

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