Tokyo History

VANのあった街、青山。そして東京オリンピックの時代。

東京オリンピックとVAN。
1964年の東京オリンピック、日本選手団の真っ赤なユニフォームをデザインしたのがVAN創業者の石津謙介さん。
東京オリンピック関連番組の中でその話題が紹介されたり、先日もNHKBSプレミアムの「新東京物語」という番組の第2回放送で、「街はこうして輝いた」という特集で、VAN Town AoyamaやVANのことを詳しく紹介していた。
1960年代の青山の風景写真もふんだんに紹介され、VAN創業時のデザイナーだったくろすとしゆきさんも出演して、とても興味深い内容だった。

VANとの出会い。
高校生の頃、バスケットボール部に所属していた。群馬県内でもベスト3に入るチームで、関東大会にも出場したり、もう一歩でインターハイにも行けるくらいの実力のあるチームだった。そのバスケ部におシャレな先輩がいた。田舎町なのでファッションとは無縁で毎日学生服で過ごすのが当たり前だった。それが、その先輩たちは電車に1時間乗って高崎という大きな街まで出かけ、ボタンダウンやローファーを買い、週末の練習には颯爽とアイビー・ルックで練習に現れた。夏にはバミューダという半ズボンを履き、マンシングのホワイトソックスを履いていた。それがVANとの出会いだった。
そんな先輩たちに教えられ、MENS CLUBも回し読みさせていただき、街のアイビーリーガーズというストリートアイビーズの写真紹介コーナーで、次回は高崎取材という時、先輩たちは写真に撮られようと高崎の街をウロウロしていたこともあったくらい、アイビーに熱中していた。
そんな先輩たちが着古したボタンダウンやローファーのお下がりをもらって着ていたのが私のアイビーデビューだった。

B倍のポスターと茶色の紙袋。
アメリカンフットボールやMBAのバスケットボールの大きなポスターも魅力的だった。白抜きで大きく、We Love Sports.のメッセージが新鮮だった。何よりもVANのロゴの入った茶色の紙袋を持って歩くのがかっこよくて、ボロボロになるまでVANの袋を持ち歩いた。バスケの練習着やバッシューを入れて持ち歩くのは、もうひとつのお決まり、マジソンスクエアガーデンのビニールバッグ。これを肘にかけて持ち歩くのもスタイリッシュだった。
農家の次男坊にはそんなVANの服を買うほどお小遣いもなく、お年玉をためてダッフルコートを欲しかったが、当時はまだ手が出せなかった。

学生時代とアイビー。
上京して大学に通うようになってから、雑誌ポパイが創刊され、リーバイスにバックプリントのTシャツやトレーナーなどのアメリカンカジュアルが毎日の服装になった。先日の番組によれば、トレーナーという言葉もスタジャンという言葉も石津さんが作った和製英語だという。何年も前にロサンゼルスに行った時にスタジアムジャンパーを買おうと思って、スタジアムジャンパーと言ってもまったく通じなかったことがある。ようやうく通じたのはレタージャケットだった。今思えば通じるわけがなかった。
学生時代の正装はアイビーだった。しかし、すでにVANは会社としては破産していた。しかし、ボタンダウンやコットンパンツは主流の商品としてどの会社でも製造販売していた。VANではないけど、VANのスタイルを継承した会社がたくさんあった。

門前仲町の用品屋さんで見つけたボタンダウン。
もう10年くらい前だろうか、元石津謙介さんの秘書をされていた方と出会った。当時、門前仲町にある会社にお勤めされていて、門仲もいいねぇなどとご飯の美味しいお店を紹介いただいたりしている時、商店街の外れにある洋品店に案内された。そこで、VANのステッカーなどのデッドストック品があったので思わず購入。VANではないけどVOXの半袖ボタンダウンもあったので買って、今でもそのまま保存している。このボタンダウンもおそらく売れ残りのデッドストック品で、3,800円の値札が付いている。
その方は高田さんといい、最近FBでVANファンの交流サイトのようなことをしているので、ここ最近VANの話題をよく目にするようになった。

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